2022年9月30日 星期五

[音]お岩さん


詞:立松和平 曲:友川カズキ

「お岩さん」

愛しきもの 空に浮かんで
つかもうとすれば消え 消えてはまた浮かぶ
お前は何を望むのだ 夢のかけらもない
欲しいのならお前にやろう何もかも それでも
足りないものは何だ お岩さん

恐ろしいもの いたいけな顔
冷たくもえる眼 形あってなきもの
お前はいつも正しかろ 夢を食べたがさいご
三千世界の鳥などと遊ぼうか もうすぐ
お前のところに行く お岩さん

美しきもの 形はくずれる
思いをとげようとももとにはかえらない
地獄のはてまでめおと ほらすぐそこが死だ
三千世界の鳥殺し 花の海の底から
さきは判らねえ お岩さん


「岩先生」

那可愛的 浮在空中
一揪就消失 消失又浮現
你是在眺望啥 連夢的碎片都沒有
想要的全都給你 還是不夠
還不夠的是什麼 岩先生

令人驚懼的 童顏
冰冷的火眼 總將
無形的導正 最後當夢吃下
在跟三千世界的鳥遊玩嗎
馬上過去你那邊 岩先生

那美麗的 形體崩壞
窮盡想像也無法恢復
要連理直至地獄 看哪倏地屍橫遍野
在殺三千世界的鳥 從花海的底下
接下來會如何呢 岩先生

[音]ドクトル庭瀬


詩:嵐山光三郎 曲:友川カズキ

「ドクトル庭瀬」

赤い夕陽の照る坂で
ドクトル庭瀬が吠えている
バカヤローバカヤローと吠えている

あじさいひらく坂の上
ドクトル庭瀬が泣いている
バカヤローバカヤローと泣いている

冥界の衆生 沙婆界の衆生
冥界の衆生 沙婆界の衆生

雨の鎌倉 東慶寺
思いのたけは くれないに
ドクトル庭瀬 星となる

そちらはそちらで広すぎて
行ったことないからわからない
すれちがったところでわかりっこない

冥界の衆生 沙婆界の衆生
冥界の衆生 沙婆界の衆生

あわい朝日の のぼる丘
ドクトル庭瀬が笑ってる
サヨナラサヨウナラと笑ってる


「Doctor庭瀨」

紅色夕陽下的坡道
Doctor庭瀨吼叫著
大笨蛋大笨蛋地吼叫著

繡球花開的坡道上
Doctor庭瀨哭泣著
大笨蛋大笨蛋地哭泣著

冥界的眾生 娑婆界的眾生
冥界的眾生 娑婆界的眾生

下雨的鐮倉 東慶寺
思念所及 嫣紅遍遍
Doctor庭瀨 變成星星

即便如此太過遼闊
過去了沒不清不楚
擦身而過了嗎我不知道

冥界的眾生 娑婆界的眾生
冥界的眾生 娑婆界的眾生

拂曉曙光的山丘
Doctor庭瀨笑著
再見再見地笑著

2022年9月13日 星期二

[音]透谷をきく


詞曲:友川カズキ

「透谷をきく」

ギザギザの危うい空の下
鬼のように美しい女とすれちがった
唄のそばには誰一人として居なかった
大兄透谷一輪散った日だ

木莓の実は愁いの玉なるや
「みじめなものだった自分の半生は何であったのか」
予期せぬ悲運であるならば
もっとも寂しいユメならん門太郎

ここだぞと才気はただならぬ気配である
もはや破れかぶれの一点突破である
「人生建て直すには北へ行くことだ」
大兄透谷一声聞いた日だ

ギザギザのギザギザの空の下
見まごうことなき苛烈なる主張の穴
唄のそばにはみどり子英遊ぶ
大兄透谷一輪散った日だ


「聆聽透谷」*

危機四伏的鋸齒狀天空下
與鬼魅般的美女擦身而過
吟唱時身旁空無一人
大哥透谷凋零散落之日

樹莓果實已為悲慘圓玉
「除了悽慘自己的大半輩子還剩啥」
預期外的既悲且痛的命運
超越夢境最寂寞的門太郎

這才氣絕非等閒之輩
早已自棄之處竟殺出血路
「要重建人生就朝北方直行」
大哥透谷這一聲直貫之日

鋸齒霍霍鋸齒霍霍天空下
絕不會把這激烈主張錯看
吟唱時身旁女兒小英在遊玩
大哥透谷凋零散落之日


*詩人北村透谷

2022年9月11日 星期日

[音]思惑の奴隷


詞曲:遠藤ミチロウ

「思惑の奴隷」

じっとして 石のよう
汗ばんで ビンのよう
夜露に濡れて 氷は溶けた

思惑はあなたの奴隷
悪いふうにしか考えられないか

犯されて 犬のよう
つまみ食い 蟻のよう
水たまりに落ちて ひざから崩れた

さびついて 鉄のよう
傷ついて ひび割れた
夜露に濡れて 真っ赤に溶けた


「思緒的奴隸」

一動不動 像塊石頭
微微滲汗 像隻瓶子
附滿夜露 冰塊消融

思緒是你的奴隸
淨冒些壞念頭嗎

道德敗壞 像隻狗
配下酒菜 像螞蟻
掉落水窪 膝落跪倒

長滿銹 像塊鐵
全身傷 滿裂痕
附滿夜露 溶成鮮紅

2022年9月2日 星期五

[音]楢山節


詞:深沢七郎 曲:友川カズキ

原譯:https://movie.douban.com/review/1627547/
全詩:http://d.hatena.ne.jp/toumeioj3/20051123/p1

「楢山節」

お父っちゃんは出て見ろ枯木ゃ茂る
行かざなるまい、しょこしょって

かやの木ぎんやんひきずり女
せがれ孫からねずみっ子抱いた

夏はいやだよ道が悪い
むかでながむし山かがし

塩屋のおとりさん運が良い
山へ行く日にゃ雪が降る

ねっこのおばやん納戸の隅で
鬼の歯を三十三本揃えた

楢山祭りが三度来りゃよ
栗の種から花が咲く

かやの木ぎんやんひきずり女
せがれ孫からねずみっ子抱いた


「楢山節」

父親快來看枯樹長新枝
不去可不行揹著馱物架

榧樹家阿銀懶女人
兒孫滿堂一窩老鼠

夏天行不通路險惡
蜈蚣大長蟲赤煉蛇

鹽鋪阿酉運氣好
進山之日下大雪

樹墩兒家婆婆私處
虎牙整齊三十三顆

三度祭楢山
栗子把花開

榧樹家阿銀懶女人
兒孫滿堂一窩老鼠

2022年9月1日 星期四

[文]友川かずきー大岛渚

译者:泽泽

友川发专辑了, 多开心的一件事。

通常说,世事如歌,歌如世事。萨特说,一个作家必须拥抱他的时代。那些表达自己的人,必须在某个部分与世界同流合污。但友川从来没有和世俗同流合污。

为什么说东北是日本人灵魂的故乡,而有的理论却认为是南方,或者是西北,但不知为什么东北这块土地对日本人来说那么地熟悉。事实上,出生在东北的诗人已经把这种乡愁带进了日本的内核,他们寻找乡愁。在我的朋友们看来,寺山修司、三上宽、长谷部日出雄都是以那份情怀作为钥匙,在艺术中与世界共眠。然而,友川并不打算与世界共眠。

无限的激烈和无限的温情在他的音乐中共存。无限细腻的诗和无限露骨的日常用语在他的音乐中共存。东北的诗人们对世界无限地感慨,有时又无限地放纵。这两点友川都没有。当友川用他那双大眼睛盯着我们质问的时候,人们会犯糊涂。不是眼睛。是眼珠。换谁都会犯糊涂。就像画家雷东的眼睛一样。

但这不意味着他是率真的,率真的人是三上宽。当然还有长谷部日出雄。寺山修司毕竟也是率真的。从他脖子上挂着纯白丝质的围巾,在大船摄影所出现的那一天,他在戛纳劝导我不要拍商业片,那时候我就知道,他是一个率真的人,至少在我面前,他是率真的。友川他则喜怒无常,可能是因为他的才华让他没办法做到率真。

虽然友川是歌声造就的人,但即便如此,对于歌唱,友川有时似乎也不是那么地执着。画画、做饭、喝酒、打杂的戏,对他来说和唱歌一样重要,一样需要斟酌。他只是爱着这些事物,而爱的效果和结果都不重要。

如果友川的歌渗透了你的灵魂,就当你是幸福的。你还有一颗响应不求回报的爱的心。这个世界上还存在着不求回报的爱,正是友川用自己的身体换赎和见证的。

友川,好久不见,可还好?依旧美貌俊逸吗?你的酒量有没有变低?我知道你身边有很多好朋友。我知道你有好朋友,比世界上的人少,但远比一个人所能拥有的多。 

(改编自《初期杰作集》(1989年的供稿)